Heart Beat Football
2008年始まりにあたって、このブログも名称を新たにしたいと思います。 ブログ名はどうみても一昔前の三菱自動車のキャッチコピー「Heart Beat Morters」もパクリです。 本当にありがとうございました…
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慮ること、想像すること
正月から猟奇的殺人事件が続いている。
ひとつは兄が妹を、もうひとつは妻が夫を殺してバラバラにしたという、ショッキングな事件ばかりである。
双方に共通するのは、きわめて身近な人が殺したということである。
そして、人間関係がトラブルの元とされている。
兄が妹を殺した場合を見ると、妹が兄に対して屈辱的な言葉を投げかけていたということが報道され、それが引き金になったと推測される。
しかし、ここで問題なのはこれで単に兄が妹の言動にキレたと結論付けることによって、妹が吐いた言動が免責されてしまうことである。
敢えて兄が妹を殺すまでを心理を裏返して推測してみようと思う。
しかし、下世話な企画だねこりゃ
この事件のように相手の立場を斟酌しない言葉が引き起こす事件は後を絶たない。
口は災いの元というわけだ。
しかし、こういうとき「相手の気持ちになって考えよう」という言葉は決して有効であるとは限らない。何故なら、相手の気持ちを考えた(つもりになって言った)言葉こそが相手を傷つけることもあるからだ。相手がどう解釈するかを考えず言葉を操る人は多い。相手の快・不快を我々は推し量る事でしか相手の「気持ち」を理解できないからだ。本人は真剣に相手の気持ちを慮った積もりだろうが、言葉を解釈するのは他人である。広く使われている言葉とは、多くの相手が了承している、いわば、流通している言葉である。
通貨のように、一国内でしか使えない「ペソ」のような通貨から、多くの国で流通する(裏返せば信用性が高い)「ドル」まである。
言葉には誰もが了解できる(信用性の高い)言葉から、そうでないものまでも含めて我々は言葉を使っている。
ドルしか流通していない国で円を使っても買い物できないように、言葉も受け取り手が受け取れるようドルに交換する作業が必要である。
その際にはどちらの貨幣も「信用できる」という前提がなくてはならない。贋金では相手の「信用」を失うからだ。
他人は自分の延長線上にいるわけではない。むしろ、「誰だって~のはずだ」と一括りにしてしまう「はずだ」「~だろう」の危険性こそが第一に相手を己の見えないところで苦しめているかもしれないという想像力を奪う。
その苦しめられた側の人間にとってはこの苦しみは不当なことであるように思える、と考えることが出来るくらいの想像力が妹にあったならば、結果論的ではあるが今回の事件は起きなかったかも知れない。言葉は暴力に繋がる危険性を孕むということに、この場合妹はあまりにも無神経すぎたのであろう。
そして、殺されるという最悪の結末を迎えたわけである。

それはともかく、この場合を考えればこの妹はあまりにも不用意な言葉で相手をキレさせてしまったことこそが問題である。俺だって殺した兄のような立場に立たされたならば、殺さないまでも何をするか分からないことだけは断言できる。勿論、だからといって殺していい訳ではないが、この妹に象徴的な、自分は絶対正しいと思う人ほど見えない形で他人から憎まれていることはよくある。つまり独善的であればあるほど、憎まれる度合いは高くなる。憎むということと、嫌うということを別にすれば、嫌われるのはいわば表層的な好悪によるもの、憎まれるというのはより深刻な潜在的な憎悪を引き出す感情である。
そして、独善的な人ほど相手が自分の言葉によって如何なる影響を及ぼされるかについては、無頓着である場合が多い。つまり、自分の発言がいかに他者の憎悪を助長するかについての想像力に欠けているということだ。人間が他人を嫌らったり、憎んだりする理由とは、実は極めて小さいことである場合が多い。日常の何気ない一言や、行動が相手にとっては気になったり、目障りでしょうがないということもしょっちゅうである。
これを理不尽と言えるほど、人間は合理的ではない。
むしろ、人間の行動ほど理不尽なものもないかもしれない。
この事件はこれを示唆するような事件であったように思われる。

この問題は他者との関係を考える上では大変示唆に富むものである。
一つには相手の気持ちに立つことの重要性と同時にその困難さ。
その前提として、慮ることとそれを支える相手に対する想像力。
そしてそれが欠けた場合の危険性。
我々は安易に他人を「思いやる」ことも困難な時代に生きているのかも知れない。といっても、「美しい国」にはそれこそこまで慮る「想像力」は求められない。最近の「美しい国」には、画一的な便利さや、安っぽい「正義」しか感じられない。
少なくとも出来ることは、現代の社会では慮ることと相手の気持ちを想像することとの間には大きな亀裂が生じていると認識することだ。
そして、それを安易な言葉でぼやかしたり、隠蔽することではない。
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