Heart Beat Football
2008年始まりにあたって、このブログも名称を新たにしたいと思います。 ブログ名はどうみても一昔前の三菱自動車のキャッチコピー「Heart Beat Morters」もパクリです。 本当にありがとうございました…
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「国家の品格」論
文字通り昨年(2006年)のベストセラー藤原正彦著「国家の品格」についてです。
従来の俺ならこういうものは読まなかったんですが、あることをきっかけに読んでみることにしました。
ええ、これまではこの手のヒット作というものを売れ線というだけで敬遠してきた立派な「中二病」でした。
本も、興味のある本しか読まないし、音楽も自分の好きな特定のアーティストしか聴かなかった。ついこないだまで最近人気の日本のバンドといえばELLEGARDENしか思いつかなかったのは内緒で。
映画も、「いやー、感動しました」と観客に言わせるTVCMをやってるような映画はDVDでしか見なかったのも秘密で。ミニシアター系映画マンセーといっていたのも内緒にして。
これからはなるべく趣味は偏らないように気をつけることを目指していこうと思います。
積極的に世の中の売れてる物にも注目していこと決心した24の冬。
けど映画館の、カップルばかりで男一人で入るのが躊躇してしまうような雰囲気はどうにもならないけど(´・ω・`)
どうしたらいいんだよ?(´・ω・`)
それはさておき、国家の品格だ。
感想は正直面白くなかった、の一言だ。
勿論、内容や筆者の主張が魅力ないものであるという意味ではなく、筆者の主張はとくに真新しいものでもないからだ。
たとえば、教育論ひとつでも、昨今の「ゆとり教育」を批判し、敢えて詰め込み教育を推奨するなんて、産経新聞或いは雑誌「諸君」「正論」といういわば「保守」系論壇では以前から喧しく主張されてきたことである。
なにを今更、という感がある主張である。かくいう俺も昔「正論」を読んでいました。

第1章の近代的合理主義批判も、どちらかというとこれまでの保守主義系思想家の系譜を出ないものです。逆に革新派が「人権」「ヒューマニズム」という近代的合理性のたまもの以外の何物でもない概念に固執して、袋小路に迷い込んでいる(しかも彼ら自身はそれに気づいていない)
ということ自体が実は「保守=頑迷」、「革新=開明」という図式が虚偽である証拠なのにね。そして、それが中国や韓国のマスコミがいう日本の「右傾化」を招いているということまで想像が働かないほど日本の思想、論壇は行き詰まっている証拠ですが。

第2章の論理の限界について。大分筆者も大雑把に議論しているが、結局のところ本書の最大のテーマ「理論vs感性」の反証の意味合いが濃い内容です。というよりもこの章が一番この本の主張を簡潔に示している部分ではないでしょうか?ということで以下略。知りたきゃ本を買うべし。といっても俺もブックオフで305円で買いましたが。

第3章は自由、民主主義、平等への懐疑。
未だに日本ではフランス革命を「封建主義の打倒」という文脈でしか考えない向きがありますがとっくの昔からフランス革命批判は起きていたことです。例えば、フランス革命の引き金になったとされるバスチーユ牢獄襲撃事件も、実はある種のデマに突き動かされた民衆の「理由なき」暴動だったといわれるのに、である。ちなみに革命当時バスチーユ牢獄にはかのマルキ・ド・サドが収容されていたというのは有名な話。また、革命後のヴァンデ戦争で旧体制派(王党派)が革命側により虐殺されていた、という事実を日本の歴史教育では教えてはいないのにね。ところで、明治維新は何故「維新(restoratin)」なんでしょうね?封建主義体制を打倒した運動なんだから「革命(revolution)」というべきなのに、である。しかしよく考えると、封建社会というのは言い換えれば、武家社会である。平安時代末期から明治維新までのおよそ7世紀はそれまでの貴族社会から武家社会へと「革命」していた時代であった。ただし、後醍醐天皇のように天皇親政を目指した場合もなきにしもあらずだが。樽さんの指摘によれば、飽くまでも維新とは「維新=これ一新する」であり、立憲君主制への転換は「王政復古」という、維新とはまた別の事件であるという。それでも、なぜ敢えて「維新」なのかという疑問は消えない。無学者の情けなさである。

第4章は日本の美徳、文化についての考察。
強調されているのは、日本の文化が他の国の文化の安いコピーではなく、それらを吸収して消化したことにある点である。パクリはパクリでも、パクったものとパクられたものの間に明確な連続性が見られず、そしてそれを立派なオリジナルであるとするならば、某東アジア国のように、オリジナルにも劣り、かといって独自性も打ち出せないものを劣化コピーといいます。そういう点でいうなれば、我々が享受している日本という国は確かに稀有なという意味で「異質な国」でしょう。これを筆者は「情緒」と「形」というキーワードで著している。この意味は本書で。

第5章はずばり武士道精神の復活を説いたもの。
いかに武士道が人口に膾炙しているかについて事細かに著している部分で大変興味深い箇所ですが、筆者は武士が単なる一階級ではなく、憂国の士。今風に言えばまさに「右翼」であるという点には触れていない。そして、右翼と武士の違いは、武士という階級を支えていたのは、彼ら自身が現に国家の礎だという士大夫としての矜持であるのに対して、右翼のそれが
失われたに対する抗議(プロテスト)であることを。これだけで武士道精神を勘違いする人は「軍国主義」とか「教育勅語」と関連付けようとしますが、勿論そういう短絡的な考えが邂逅しているからこそ敢えてこのように書いたのでしょう。一種の「釣り」ですね。

第6章はこれまでの総括的なものです。
ポイントは人間中心主義批判。そしてそれの論拠を「情緒」に求めるのが筆者の立場であると強調されています。そして現代日本において情緒が失われたことにより、日本人らしさはおろか、国際化すらままならないという事態が出来していると論じる。その一つに語学教育の貧困さを挙げる。
言葉に限らず、人の行動が他人には如何に映るかということに無頓着なのはこれからの時代に危険である。日本人のように12月24日にキリストの生誕を祝い、元日には神道の八百万の神に一年の幸福を願う。結婚するときは聖なる父の前で愛を誓い、死んだときには坊主を呼びお経をあげることを当然のごとく思う。そんな日本人を、例えばイスラム原理主義者達には如何に思われるか、を冗談としてではなく真剣に考えなければ、国際化(グローバリズム)の時代なんて言っても、まさに寝言でしかないでしょう。
国際化を叫ぶならば、まず自分を客観視した上で自己と他者とのバランスを取るしかないのに。日本が陥っているのは、国際化という言葉に捉われ、自分の言葉や行動が他人に対して影響を及ぼし得るのかを想像する想像力が欠けている事こそが現在の日本が置かれている立場の理由でしょうね。

読後の感想としては、しかし、この筆者はすごいですね。全ての問題を情緒の欠如に関連付けていますが、仮にそれが真実であろうとも、それらの解決策を具体的にどう押し出していくか、こそが問われているのに。あまりにも結論に先走りすぎて、肝心の理由付けが甘い感がある。もっときちんとした論証を求めたい。そこまで筆者に、そしてたかが200頁足らずの新書に求めるのは酷かも知れませんが。俺に言わせればこのベスト・セラーだけは、なぜこれほどヒットしたのか理解に苦しむという意味で迷著である。
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